昭和四十七年六月二十七日
「口に眞を語りつゝ、心に眞の無き事」
今日は御神誡の神という字、示辺に申と書いて、神、私共が頂いておる神様はね、いつも絶えず私共に示しておって下さる、言わば見せておって下さる、又いつも申しておって下さる、いつも私共に話しかけておって下さる、今日はこゝのところを頂いて、神の字を頂いたのです。
そしてその神の字を頂いて、神様はいつも示されておられ、いつもお話をしかけておられる、話しかけておられる、示しておられる申しておられる、それが神さま、私共が拝ませて頂いておる神様はそういう神さま、だからそれを漠然として表現するなら、目に見える全てが神様のお姿だと、聞こえてくる全てが神の声として頂く、それを少し煎じ詰めて参りますと、例えば子供が云う事を聞かないそこにね、親の心の状態を、子供によって示しておられる、と云う風な頂き方をするでしょう。そこで子供じゃない私自信がと、これは示しておられる、見せておられる、これは漠然とじゃなく、愈身近にですよね。
又は人が腹の立つような事を言ったと致しましょうか、だからそれはあの人ではない、神様のお声として頂いたら、それは大変有難い事になってくるんだと云う事は、神様、示す、申すと云う事を漠然と、言わば、いわゆる天地の中の、いわゆる森羅万衆、その全てが神様の姿である。
いわゆる示しておられる姿形と云うものは、そのまゝが神の姿だと見る、又は聞こえてくる全てが神の声として、神様が申しておって下さる、そういう性質のものなんです、神様とは、それを私共が御理解を頂いて、段々自分を中心にして、自分の周囲周辺からおかげを頂いていこうとする事の為には、身近なところでいわゆる、子供なら子供の云うならば状を見て、それを自分の姿、起きてくる問題、それを見ては、それを自分の姿と見、又は聞こえてくるその全てを、神の声として聞く、それを身近に云うと、今申しますように人から悪口を云われた、と云うて腹を立てるというので無くて、それを神様の声として頂いたら、お礼が申し上げられるという、これはまあ身近に神という字を解釈する事になる、示す、申すと書いて神となる。
今日はだから、大体この神の一字から、御理解頂いたのですけれども、これではあまりだから次を開かせて頂いたら。
「口に眞を語りつつ、心に眞の無き事」と云う。
それで私共がですねえ、本当に、口に眞を語りつゝ心に眞の無き事と云う事なども、自分の心の中にいつも反省させて頂きますと、本当に口では眞を語りながら、心に眞の無い事に、びっくりするような毎日を過ごしておる、と云うことでございます。
眞の道におりながら、眞の道を踏まぬ事、と、その次にもありますように、私共はその眞の道を踏ませて頂く事に、精進させて頂いたら良い訳なのです。
昨日、日田の綾部さんの所の、ご主人のお立ち日でした、四時の御祈念に併せて、御挨拶をして頂きたいと云う事でしたから、四時に皆さん見えられました。そしたら、いつも私は奉仕着のまゝ御挨拶をするんですがね、式年祭というと私は改めて又、教衣をつけたり装束を付けたり致しますけれども、只お立ち日だから、霊様に御挨拶して下さいというのは、いつもこのまゝでおかげ頂くのですけれど、綾部さんが見えられてお届けがありましてね、神様にお礼を申させて頂きよりましたら、「楽でも入れたい」と頂きました。
楽を入れたいでなくてね、楽でも入れたい心根だと、神様が仰った教祖様が天地の親神様から、いわゆる教祖の伝記ですよね、自分の段々おかげ受けてきた事を、書き記される訳ですよねえ、そして段々おかげを受けてこられた、いわゆるクライマックスと云うところで感泣しておられます。
どうしてこのように人の助かる働きが起きてきたのであろうか、自分のような無学の百姓の所で、と思われたら思わず感泣しておられる、その時に天地の親神様は、教祖様に「お前が悲しいのではない、(悲しいと云うのは、こゝでは喜びという事なんですねえ)天地の神が悲しいのだ」と仰っておられる、いわゆるお前の喜びではない神の喜びだと仰っておられる。
だからもし神が詠でも作れたら、詠でも創りたい、画描きだったら絵にでもしておきたい、と仰るところがありますよねえ、そういう感じですねえ、云うならば詠を詠う人ならば、詠でも詠いたい、詠でも作りたい、絵を描く人ならば絵にでも描いておきたい、と云うそういう感じですですねえ、絵を書きたいと云うのでない、絵でも書きたいと、詠でも、もし自分が歌人であるならば、詠でも作りたいと云う訳です。
昨日私が頂いたのは、そんな感じで頂いた。楽でも入れたい、例えばお祭りにしたい、そして典楽なんかも、それこそ楽人も沢山入れて、楽でも入れて今日の、云うならお祭りにしたいと云うような事を頂きました。
はゝあ神様が楽でも入れたい、と云う程しに、例えば何か知らん心を動かしておられるとするなら、こらあ教衣ぐらい着らにゃいかんと思い、あちらへ下がりまして教衣を付けて、神様へお礼を申させてもらい、又は霊様へ御挨拶させて頂きました。
どういうところがね、そんなに神様が、楽でも入れたいと云う程に心を動かされたのであろうか、まあ云うならお立ち日ですから、態々教会ではなくても、自分方のご霊前で、生前好きなものでも作ったり、お供えでもさせて頂いて、拝まして頂けばいゝ位、お茶でもわかせば それでもいゝようである、けれども態々、云うならば威儀を正して、しかも子供、孫連れて今日はお爺ちゃんの立ち日だから、お取り次を頂いて、親先生に御挨拶をさせて頂こう、と生前お好きだった色々なものを、思いを込めてお供えをされてからの、言わばお祭りでございました。
神様に私、どう云う訳で神様がね、お祭りという言葉が使われない位な、簡単なお祭りですですよねえ、言わばそれに神様がどうして、そのような心を動かされるのであろうかと、思わせて頂いて、お礼申させて頂きよりましたら、お寿司の鉄火巻きと云うのがあるでしょう、例えば今迄は、随分と仏教の熱心な信心なさっておられましたから、それこそ、御仏壇なんかはもう本当に、私共は拝んだ事のなかごたる、立派な御仏壇を拝んでおられますね。
それでもう、お寺さんとは親戚のごと、お寺さんの御用と云や、綾部さんが第一線に立ってから、御用なさっておられたという時代がある訳ですから、もう本当に仏様ごと、と云うたら思いを込めてなさっておられた訳です、けれどもその形の上ではなさっておられる、まあ一見、それは丁度鮪なら鮪を巻いた、鉄火巻きに見えるんですけれども、今迄のには、わさびが入ってなかったと神様が仰った。どうでしょう、あの鉄火巻きにわさびがもし、きいてなかったらもういっちょん値打ちはなかですよ、ですからねえ、これは仏教で御法事的な事をするという事は、という意味じゃあないですよ、そんならお道の信心さして頂いて、改式させて頂いて、そしてそんなら立ち日なら立ち日に、お供えでもして御挨拶させて頂くと、例えば云うておってもです、それがね、例えば今日の言葉をもってするなら、口に眞を語りつゝ心に眞のなき事と、いうところをね、形の上にはいかにも眞のようにある訳ですよねえ、形式ふんでますから、お取り次を頂いて、どうぞお礼申してくれと云うのですから、けれども心に眞の無き事というところを、反省しなければならんのじゃなかろうか、そんならその眞というのは、もう仏教でゝもです霊様の前にわさびの入ってない鉄火巻き位の事は出来ておった、けれどもそれでは鉄火巻きとしての値打ちが無い、法事をしたという値打ちが無い、こと霊様のごと、こと神さまごとならどうでも、眞心というものが結集されなければならない。
その真心というものは、決して沢山した、賜かにしたという事が眞心じゃない、それはわさびを、ちょっときかしたというだけの事なんだ、例え申しますなら、美味しいぼたもちが、本当に手作りでなさったんでしょう、アユのお供えが来ておりましたが、私は初めてあんなの見たですけれど、水槽に入れてから泳いでいる、折角お供えさせて頂くならば、もう生きのいいところ、もう折角ならば、ちょっと思いを動かしただけなんです。
もう例えば眞心という事には、よかよかという事があってはならない、そんならその事はどういう事かと云うと、それはね、もうちょっとした事なんです。
私は朝目覚ましのおかげを頂いて、すぐ枕元の電気スタンドをつけます、そしてすぐ、部屋の大きい電気をつけます、そしてすぐ洗面所へ参りますけれども、私は、例えば洗面所へ行ってくる間でも小さい豆電球ですけれども、それをつけっぱなしにした事がありません、必ず又、次の部屋に行ってから電気をつけといて、そしてそれを必ず消しに行きます、私はこう云う事がまごころじゃなかろうかと思うのです、例えば神様から頂いておるものを、本当に御粗末御無礼にしちゃあならん、というその思いがです、例えば豆電球があちらの部屋について、大きい電気がこちらについとる、それを例えばちょっとの間だっても、矢張り消さなければおられないものを私は感じます。
私はね、ほんなそこのところの心の使い方が、普通の者とちょっと違う、いつもそこにピリッとした、わさびがきいておる、大した事じゃないでしょうが、だから電気をつけちゃならんとか、云う事じゃ決してないですよ、これは必要な時はどれだけ使ってもいゝのです。けれどもこゝで二つもの電気はいらない、必要でないという時に、あちらの豆電球もついたまゝ、こちらの大きい電気もついとる、といったものは許されないと思う。
信心させて頂いておる者は、贅沢しちゃならんと云う事じゃないどんな贅沢したっちゃかんまん、けれどもね、そういう例えば無駄な事と云いましょうかねえ、いわゆる眞というのは、もう本当に自分がね、心に眞の無き事というのは、もう本当に、わさびをきかせるだけのところなんです、それで神様は、眞として受けて下さるという事をです、感じました。
いわゆる楽でも入れたい、という程しに、神様は心を動かして御座る、これはもう信心させて頂く者がです、いつもここんところがやり過ごしが出来ないだけの、私は心を使わせてもらわにゃならんと思うですねえ。
いわゆる、この位な事じゃからよかよかと云う事が言わば、口に眞を語りつゝ、心に眞の無き事、という事になるのじゃないでしょうか、九分九厘のところまで、言わば出来ておっても、たとえ ほんな一分のところで、眞になったり、眞にならなかったり、神様の心まで動かす程しの事になったり、神様に通じなかったりというような事になる。
これはもう日常生活の中に沢山あると思うですねえ、そこんところを教祖の神様は、実意丁寧神信心と仰っておられますですねえ、ゆるがせになさらない、このくらいの事だからと云うて、眞の道を踏んで行くという事は、そういうような事、そこで神様がいつも示しておって下さる、神様がいつも話しかけておって下さるという事ある大変お徳も受けられた方の先生が、ある時見事な大きい手洗いばちの奉納があった
それでその事を神様にお礼を申させて頂いてもらった、そして今迄は小さい手洗いばちであったのが、大きい手洗いばちに変わった毎日毎日どうぞこの手洗いばちが、干上がってしまう位の氏子をお引き寄せ下さい、と云うて願われた。
もう神様といつもお話合いの出来られる程しの、お徳を受けられた先生でしたけれども、その事に対して神様が、うんとも、すんとも仰らなかった、それで重ねて又その事をお願いなさった所が、沢山の信者をお引き寄せ下さい、というような願いではなしに、何故この手洗いばちで心を清めたいと云う氏子をお引き寄せ下さいと願わんかと、神様が仰ったそうです。
又この先生の御伝記の中にあります。世界中の氏子に神は話をしてみたいと仰った、聞く耳を持たないから、せん方ないと仰った。世界中の氏子にお話がしてみたい、だから世界中の氏子に、云うなら話しかけておられる、呼び掛けておられる訳です、けれども聞く耳を持たんから仕方がないのである。
私共が手洗いで手を洗わせて頂いて、口をゆすぐ時に、只手が汚れとるけんと云うだけでなくて、本当にその都度、今日も又手を清めるように、心も清めさせて下さいと云う、ちょっと心を動かすというだけなんです、眞とは
又神様が示して下さる、又云うて下さる事をです、いつも聞耳を立てゝおくと云う事なんです、そこに先程から申しますように、例えばそんなら、子供の目に余るような態度を見た時、そこに神様の姿を見る、これがお前の姿、お前の心の中にこれと同じようなものがあるんだぞと、話しかけておられる、それを聞き取らせて頂く信心と云う事が、大事になって参ります、そこに神の姿を見、そこに神の声を聞かせて頂くという、そういうおかげを頂かせて頂く為に私共はいつも、心に眞の無き事を反省させて頂いて、そんなら心に眞の無き事というのはもう、ちょっとした心、例えば鉄火巻きに、ちょっとわさびをそえる位の事。
皆さんそんな体験おありでしょう、もう本当にちょっとした事を思いついて、ちょっとした事を実行したら、じ―んと下から湧いてくるような事がありましょうが、それがこと神様事、こと霊様事にそういうちょっとした心ですね、例えば同じ一升なら一升のお酒を詰め合せるでもです、甲乙の人が同じ物を同じお供えさせて頂いても、心のちょっと使い方で、大きな変わり方になってくるんですからねえ、ですからそういう私は、事を心に眞の無き事と、いわゆる信心させて頂く者の心がけの中にです、眞を欠ぐような事があってはならないなあと、こう。
立派に出来とる、出来とるけれども、何か知らんけれどもそれに対するところの応えと云うか、心に感ずるものがなんにも無いとするなら、矢張り眞が欠げておると悟らしてもろうて、愈眞の道を求めさせて頂くと同時に、眞を捧げ尽くしていくという信心。
それは大変な事です、お互いが、なしておったり云うておった利しておる事は、そんなら大きな事を云うておったり、しておってもいゝのです、大きな事がなされておるならそれが有難いです、けれどもそれにちょっとわさびをきかせると云う事をね、いつも心がけておかなければいけないと思う、もう本当にちょっと心を動かせて頂く、そういう心の状態を育てゝいきよらないとです、神様が示してくださる事、神様が云うておって下さる事を、聞き取る事も出来なければ、又見る事も出来ません。
だから信心の稽古はそこだと分かります、矢張り眞心だと分かります、心をそのように小さく細かく、まあ云うなら使わせて頂けれるような、心のような状態が、水も洩らさんような心の状態じゃないでしょうか、だから神様が示して下さる事も、すぐピ―ンとくる云うて下さっておる事でも、それを本当に神の声としてそのまゝ、誰々さんが悪口を云いよる、ねえごつ云いよるのか、と云うのでなくて、もうそのまゝ神の声として聞けれるようになったら、どんなに有難い事になるだろうかと、こう思うですね。
口に眞を語りつゝ心に眞の無き事、というのは、しなければならない事全部に、眞が溢れておらなければならない、と云う事じゃないですね、例えば十なら十の事をさせて頂いておる、そのひとつのところだけを、そういう心をちょっと動かせて頂く事、使わせて頂く事によって、心の全部が生き生きとしてくる。
折角まぐろの鉄火巻きのようなのを作っておるけれども、わさびが入ってないからもう、鉄火巻きとしての値打ちがないのでは、つまらんでしょうが、ちょっとそれにわさびをきかせた時に、初めて鉄火巻きとしての値打ちがある。
信心させて頂く者の値打ちと云うなら、そこんところが信心のある者と無い者の違い、というところをです、ちょっとした心配り、心を使わせて頂けれる信心。
でなかったら神のこえ、神の姿を見損なう、聞き落としてしまうそれではおかげにならんと思うですね。 どうぞ